41年の歴史
7月末の勉強会で東京に飛んだ日、実は実家のバレエ教室の発表会でした。その舞台を見て、感動覚めあらぬまま最終の飛行機で東京に行きました✈️
宮崎第1区のしげいゆかです(^^)
主人と立ち上げたパーソナルトレーニングスタジオに集中するため、実家のバレエ教室から離れたのは、今から6年前。それまでの35年間ずっと実家のバレエ教室にいました。(もちろん勉強のため、関西や関東でバレエを学ぶ期間もありましたが)
私が生まれてすぐに、大阪から宮崎に引っ越してきました。
私が3歳の時に『宮崎の子どもたちにバレエの素晴らしさを伝えたい!』また『ひとりでも生きていけるように我が子には手に職をつけてほしい!』という思いで、姉と私とお友達を集め、5人ほどで公民館からスタートしたバレエ教室。
そこから41年。。。続けるということは本当にすごいこと。
そして、離れたからこそ気づいた「プチ・プルミエールバレエ」の素晴らしさ✨
中にいた時は、ひたすらバレエ教師として、ダンサーとして、母と姉といっしょに前だけを向いて走ってきたから気づかなかった。私にとっては小さい頃からの当たり前の環境。
私がいた35年間で、本当に数えきれないくらいの曲を踊らせてもらった。3大バレエと言われる「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」も全て全幕の中での主役を踊らせてもらった。
子どもの時は、とにかくひたすら頑張って踊って、褒められることが嬉しかった。自分が頑張った成果だと思っていた。
でもここ数年、外から見るようになり、自分が頑張ったからじゃないことに気づいた。
こんな環境を母がずっと作ってくれていた。姉がいたから、小さい頃は後を追いかけながら、教師になってからは励まし合いながら、ずっと踊り続けてこれた。たくさんの生徒さんがいるから全幕のような大きな舞台が作れる。
だから自分が輝くことが出来ていた。輝かせてもらえていた。
当たり前ではなかった。
本当にありがたい環境を母が作り続けてくれたから、私は大好きなバレエをずっと踊り続けることが出来ていたんだなと改めて気づき、涙が溢れた。
母は昔から生徒たちやお客さんのことを思った愛のある演出をし、今は姉がそれを引き継いでいる。
こんなにも多くの人たちを感動させられる舞台を作り続けることのすごさ、素晴らしさを、離れたからこそ気づくことが出来た。
人に感動を与える。人の心を私の踊りで動かす。プチ・プルミエールバレエのダンサーとしてはやってきた。でも今の私の環境で、一個人としてそれをやることは本当に難しい。。。
だけど、バレエを通して培ってきたものを生かして、今度は国政改革委員という立場で、なにか人の心に残していきたいと思う。
41周年おめでとう✨ブラボ〜👏