
令和7年11月3日 ハリソン美保子(オーストラリア在住)
去る2025年8月31日(日)、日本で日の丸を掲げた大量移民反対デモが行われたのと同じ日に、多文化国家であるオーストラリアでも同じような大量移民受け入れ政策に対するデモ行進が行われました。このデモはその後も数回にわたり続けられています。場所はメルボルン、シドニー、ブリスベン、ダーウィンなど各主要都市に何千人もの人々がオーストラリア国旗を手に集まりました。デモの主催者は MARCH FOR AUSTRALIA という団体で、その目的は「全オーストラリア国民のための行進」であり、国民が同意も賛成もしていない終わりのない移民受け入れと、政府の弱いリーダーシップ、国民を裏切る卑劣な政治体制に対する不満の声をあげたものでした。
この記事では、大量移民反対デモが行われることになった前提である国民の怒りの声と国民が向き合っている現状、オーストラリアの移民に関する歴史と大量移民受け入れに伴う問題点、デモに対する国民やメディア、反対勢力や政治家の反応と当日の出来事、最後にオーストラリアの現状から私たちが学べることは何かを書いていきます。
【国民の怒りの声】
MARCH FOR AUSTRALIA ホームページの記載です。
「私たちの未来、私たちの闘い オーストラリアの未来は私たちの手の中に」
長年にわたり、オーストラリアの結束と共通の価値観は、私たちを分断する政策や運動によって損なわれてきました。街では、反オーストラリア的な憎悪、外国との紛争、そして信頼の崩壊がますます顕著になり、大量移民は私たちのコミュニティを結びつけていた絆を引き裂いてきました。この行進は、オーストラリアを築いた人々、文化、そして国家のために、また私たちがその未来を決定する権利のために立ち上がるものです。大量移民受け入れと国内で他国の国旗を大きく振りかざすことに反対します。
同団体の代表者はBBCのインタビューに、「文化、賃金、交通、住宅、水道、環境破壊、インフラ、病院、犯罪、コミュニティの喪失についても懸念している」と答えています。
【国民が向き合っている問題と現状】
本来移民国家であるオーストラリアがなぜ移民受け入れに反対するのでしょう?現在問題に挙げられている主な点を列挙していきます。
文化
住宅
犯罪 各国の問題の持ち込み
コミュニティの喪失
【オーストラリアの移民に関する歴史】
オーストラリアにおいて極端な移民政策が始まったのは1970年代に遡ります。当時のフレーザー政権は、1978年に正式な多文化主義政策を開始し、ガルバリー報告書(後述)と1977年のオーストラリア民族問題評議会の勧告に基づく政策を実施しました。これは、1975年の人種差別禁止法や白豪主義政策の放棄といった、1970年代のホイットラム政権による初期の取り組みを基盤としており、より包括的で多文化的な社会の基盤を築きました。
1901年オーストラリア連邦成立時は、ゴールドラッシュで中国から沢山の人がいましたので、アジア系移民を制限する政策を進めると同時に同じ文化や宗教観をもつヨーロッパから移民を受け入れる白豪主義政策を開始しました。その後、国力の発展に必要な労働力不足や人権尊重、人種差別に関する国際的な見解の変化を受け、1958年に移民政策の方向性が変わりました。
1970年代初頭(ホイットラム政権):
ホイットラム労働党政権は、白豪主義政策の撤廃に積極的に取り組み、人種に基づく差別を違法とし、1975年人種差別禁止法などの法律を導入しました。また、多文化ラジオ局や移民教育センターなど、移民のための重要な支援サービスも提供し、約200の異なる民族的祖先を持つ移民が暮らす多文化主義政策を確立しました。当時の移民大臣アル・グラスビーは、オーストラリア初の多文化主義政策文書「未来のための多文化社会」を発表し、文化の違いが受け入れられる多様な社会のビジョンを打ち立てました。
1977年:オーストラリア民族問題評議会はフレーザー政権(自由党とカントリー党の連立政権)に助言し、多文化主義の公共政策を提言しました。公共政策とは、白豪主義の撤廃、人種や民族による差別をなくす移民政策の改革、それぞれの言語、宗教、習慣などが維持する文化の尊重、異なる文化を持つ人々の対等な関係を築く多文化共生社会の推進です。
1978年:フレーザー政権は、ガルバリー報告書(の勧告)に基づき、多文化主義を公式政策として採用しました。この政策は、移民が文化的アイデンティティを維持することを奨励するとともに、機会均等とサービスへのアクセスを促進しました。ガルバリー報告書は、アジアからの移民に対する制限が段階的に緩和され、1973年の法改正で白豪主義が終焉する流れの中で発表されたオーストラリアの政策文書です。
1980年代:ロバート・ジェームズ・リー・ホーク(ボブ・ホーク)労働党政権では政策は進化し、1987年の多文化問題局(OMA)の設立や「オーストラリア多文化国家アジェンダ」の策定など更なる進展がありました。
2011年:ジュリア・ギラード労働党政権は、文化的多様性と社会的結束の重要性を再確認する新たな政策「オーストラリア国民」を発表しました。
オーストラリアの移民政策は、熟練したスキルを持つ労働者の誘致と家族の再会による経済的・社会的ニーズへの対応に重点を置いており、永住ビザと一時滞在ビザを含む多様なビザ制度を通じて運用されています。このプログラムは、政府が定める年間計画レベルに基づいて構成されており、労働力不足の解消、イノベーションの促進、そして地域社会の成長支援を目的としています。この政策の重要な要素は、年齢に関わらず、ビザが発給されるか強制退去が手配されるまで、不法入国者を厳格な強制収容所に収容することです。ここまでの流れを見る限りでは移民受け入れは計画的に行われコントロールされてきた様に見えます。それなのになぜ移民が問題になったのでしょうか?
人道支援※と亡命希望者
オーストラリアには人道的入国者または庇護申請者として入国する人々がいます。
主に中東(イラク、シリア、イラン)、アジア(ミャンマー、アフガニスタン)、アフリカ(コンゴ民主共和国、スーダン)からです。また難民問題の解決を目指すUNHCR*が、再定住対象として認定した国籍、あるいは到着時に庇護を申請する人もいます。
2008年~2013年:船で到着する難民申請者の急増は、従来の海外難民処理制度の廃止と同時期
2013年以降:オーストラリアは、不法な海上難民の流入を阻止するため、「オペレーション・ソブリン・ボーダーズ」などの海外難民処理および地域再定住協定を再導入
2023年~:インド人移民
オーストラリアとインドは、2023年5月23日に移民・移動パートナーシップ協定(MMPA)を締結しました。この二国間協定は、双方向の移民を支援し、職業上の移動を促進し、不法移民に対処するための枠組みを確立するもので、これには有能な若手プロフェッショナルのための移動協定(MATES)などの取り組みが含まれます。ヘルスケアやテクノロジーといった分野における熟練労働者に対するオーストラリアの需要、留学生の渡航先としてのオーストラリアの人気、ビジネス・投資機会の拡大、そして家族再会など様々な要因が重なり、インドからの移民が増加しています。
インドとパキスタン生まれの人々は、オーストラリアの多文化コミュニティの大きな部分を占めています。2021年国勢調査によると、オーストラリアでは約67万人がインド生まれ、約9万人がパキスタン生まれです。また現在オーストラリアでは、1日に1500人の移民が入国しているそうです。最近ではそのほとんどがインドからの移民で、今年の8月終わり頃にインドのピユーシュ・ゴヤル連邦大臣は「インドがオーストラリアと100万戸の住宅建設契約を締結した」と述べました。この5,000億ドル規模のプロジェクトは、UAEが資金を提供する可能性があるとし、インド人労働者はオーストラリアで訓練を受ける予定だそうです。
オーストラリアではインド人受け入れ政策が強化されたのは2000〜2006年頃からで2024年の政府の調査によると、全体の3.4パーセントで91万6千人となりイギリス人(3.5%)に続く2番目に多いグループで、過去3年間増加を続けています。実際に多くの職場や病院や学校を含む政府機関の仕事にもインド人の姿が目立ちます。そして3番目に多いのは中国生まれ(70万人)です。2020年と2021年に減少した後、中国生まれの人口は2019年のピークである66万1千人を超えました。
【大量移民受け入れに伴う問題点】
2025年にはオーストラリア住民はホームレス危機の深刻化に直面しています。
2015年以降21%増加し、13万5000人がホームレス状態にあります。この状況は、手頃な価格の住宅の不足、家賃の高騰、生活費の高騰によって引き起こされており、多くの低所得者や労働者が危険にさらされています。原因が移民問題だけにあるとは限りませんが、低所得者のみに限らず日本円にして年収約1000万ある家庭でも、家賃や土地の安い地域へ移住する人たちがいるのが現状です。
本来オーストラリアでは、若者が早いうちからカップルで協力し安くても家を購入し、その家を売ったお金でもう少し良い家を買い、最終的には夢のファミリーホームを手にする(=ルーフオーバーヘッド) という慣習があり、一般にどの家族も普通に働けば安定した生涯を送ることが可能でした。ですが、現在は大量移民による不動産の高騰に伴い需要と供給のバランスが崩れているのが現状です。10月7日の記事では、シドニーにある週800ドル(一週間約8万円)の2ベッドルームのアパートを内覧するために100人以上の入居者が並んだと推定されています。
このような住宅問題や治安悪化に直面するオーストラリア国民はもちろん、最近移民として入って来た人達も、受け入れ準備ができていないにも関わらず移民政策を続ける政府に対する怒りと歯がゆさ、不安の声や嘆きを挙げています。
March for AustraliaのウェブサイトやSNSにはこう書かれています。「政府は国民の声に耳を傾けず、自由党は警察に抗議活動を取り締まる権限をさらに強化しようとしています。彼らは、大量移民の真実に立ち向かうよりも、オーストラリア国民を黙らせることを望んでいることを公然と認めています。『アルバネーゼ政府は、週末に予定されているイベントに反対します。』と公式発表しました。また自由党と労働党は一致団結して大量移民を継続しています。それに反対する者は中傷され、犯罪者として扱われ、あるいは法律によって裁かれ得るのです。労働党議員のトニー・バーク氏、ビクトリア州自由党の党首、ブラッド・バティン氏と多文化主義担当大臣アン・アリー氏などデモを非難、抗議活動に対する新たな法律の制定を要求しています。」
メディアに関しては、筆者の周りのテレビから情報を得ているオーストラリア人でデモの存在を知っている人の方が少なく、それが話題に上がることがほぼないのが気になります。逆に話題に上がった場合では「移民を攻撃している」と怒りを表す人がいるため国民の多くは、反対デモの存在やその内容を詳しく知らされていないようです。
【大多数は一般人、ごく少数の過激派】
大量移民反対デモ行進March for Australiaに参加した大部分の人達は自分たちの先祖も移民であり、私たちは決して移民に反対しているのではないと発言する人がほとんどです。デモ行進は平和に行われ家族で参加する人もたくさんいました。中には少数派ではありますが反対勢力としてアンティーファー、ネオナチ、アボリジナル国旗などを利用する白豪主義者も存在していました。彼らは差別が正解とする極端なグループに分類されます。さらにそれら過激グループに対する反対運動も現れ、パレスチナ人グループやオーストラリア国旗を燃やす場面も見受けられました。
アルバネーゼ政府とその無謀な大量移民政策、国民への裏切り、そして国民の意思を公然と軽視する姿勢は民意を無視したものです。
大量移民に反対することは「極右」とレッテルを貼られますが、これは国を運営する上で深刻な問題提起をしている国民の声であり、住宅不足、雇用不安、生産性の低下、環境破壊、生活水準の低下、そして国民的アイデンティティの崩壊を引き起こしているこのシステムの改善を求めているのです。一方でそういう国民の声に寄り添う姿を姿を見せている政治家もいて、国民はそのあたりもしっかりと見て名前を挙げています。代表的な政治家として、カッターズ・オーストラリアン党のボブ・カッター下院議員は、オーストラリアのために行進するオーストラリアの愛国者たちを分裂させ、混乱させようとするメディアに対して、強い闘志を見せています。その他にもワンネーション党のハンソン上院議員※、ユナイテッド党のオーストラリアのラルフ・バベット上院議員の名前を移民反対デモを後押しする存在として挙げておきます。
オーストラリアは歴史的に移民によって成り立つ国家であり、親の代、祖父の代と何代も祖先を遡ることの出来る国民は少数派です。そんな元移民が新移民の受け入れを拒否するというのは、そこだけを見れば排斥や差別と捉えられてしまうかもしれません。しかしオーストラリア国民は、ごく一部を除き移民を受け入れるのが嫌なのだとは思えません。ここにおける移民の問題とは量(極端な流入数)と質(犯罪や極端な文化差、宗教による逆排斥)に危機感を感じる総意の表象を指しています。それに加え、しっかりと移民を受け入れる準備を整えるはもちろんのこと、今いる国民の生活を安定させ安心できるコミュニティや国づくりを優先するという順番が出来ていないことが一番の問題ではないでしょうか。加えてとても残念なことですが、オーストラリアは二大政党制が長く続いており、労働党と自由党・国民党保守連合のどちらも国民の方を向いて真摯に政治を行なっているのか疑問です。政治家として移民問題と闘う人はいますが、国民の多くはこれらの二つの政党に固執して、自分たちでどんどんと現状を悪化させているようにも思えます。
アメリカやヨーロッパ各国で起こっている移民問題は移民大国であるオーストラリアにさえ起こっています。そしてそこここで起こっている問題は共通項が沢山あるのです。この問題は世界規模の視点から日本における移民問題を考えていく一助になるに違いないと思います。
※人道支援
紛争や迫害によって故郷を追われた難民や、国内避難民、無国籍者などの人権と尊厳を保護・支援。
その歴史:19世紀以降、オーストラリアには大量の難民申請者が押し寄せてきました。その歴史は1839年、宗教的迫害から逃れてきたドイツのルター派教徒に遡ります。特に1970年代後半にはベトナム難民が船で到着、その後、第二次世界大戦後に避難を強いられたヨーロッパからの難民が流入しました。さらに、1990年代後半以降は中東やアジアからの船による難民申請が増加しました。正式な難民受け入れ制度は第二次世界大戦後に導入されました。
※UNHCR
United Nations High Commissioner for Refugees 国連機関、国連難民高等弁務官事務所(1950年設立)
オーストラリアではUNHCRから再定住先として紹介された人、あるいは離散家族や少数民族、女性、女児などの社会的弱者を含む、オーストラリアに既に家族と繋がりのある人を優先しています。
※ワンネーションのハンソン上院議員
オーストラリアは衰退しつつあり、大量移民によって国が分からなくなっていると警告しました。また、労働党の有権者輸入戦略、二酸化炭素排出量への懸念を表明しながら毎日1,500人の移民を受け入れている主要政党の偽善、達成不可能な住宅目標、そしてオーストラリア国旗への侮辱を強く非難しました。大量移民に反対することは、この政府、大学、大企業、そして大量移民を推進するロビー活動を行いながら、国の利益のために立ち上がるオーストラリア国民を攻撃するあらゆる卑劣な利害関係者に反対することです。
※ラルフ・バベット上院議員
翌日デモ行進を行うオーストラリア国民への支持を表明した。「一党独裁が我々を非難し、メディアが我々を中傷する一方で、バベット議員は明確にこう主張する。大量移民は主権、文化、家族、そしてオーストラリア国民が自らの未来を決定する権利を侵食している。あらゆる階層の愛国者たちが明日デモ行進を行い、オーストラリアはグローバリストのエリートでも、大学でも、不動産ロビーでもない、国民のものであることを示そうとするのだ。」