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2025.9.12

日本人としての靖國参拝|足立区議会議員 加地 まさなお

🔸1🔸 令和7年8月15日の参拝

令和7年8月15日、参政党の国会議員18名、地方議員70名、あわせて88名で靖國神社に昇殿参拝をさせていただきました。
「日本人として」靖國神社に参拝し、国のために命を捧げられたすべての方々に、感謝と哀悼の誠を捧げました。

うだるような暑さ、避けようのない日差しの中、例年にも増して多く感じられた参拝者の列。その光景を拝しながら、靖國参拝の意義、平和とは何かを考えました。

「日本社会の空気」を鋭く分析した評論家、山本七平の言葉を借りるなら、戦後に蔓延した実体のない、曖昧で情緒的な(空体語な)「平和」ではなく、現実を直視した具体的な(実体語な)「平和」。

理想論や感情論ではない、現実的な基盤の上に成り立つ「平和」が求められていると感じました。

– 戦後およそ半世紀にわたり議論が続いてきた靖國参拝問題 –

この問題の背景には、法的な枠組みや歴史的な経緯、さらには天皇陛下と靖國神社の関わり方という複雑な要素が絡み合っています。以下では、その全体像を整理しながら、靖國参の意義について考えていきたいと思います。

🔸2🔸 靖國参拝をめぐる法的・歴史的構造

2-1 政教分離の原則と最高裁の判断

日本国憲法第20条第3項は、国家機関による「宗教的活動」を禁止しています。この条項を根拠に、公人による靖國参拝は違憲であるとの批判がなされてきました。

しかし、最高裁判所は「津地鎮祭訴訟」(昭和52年判決)において、「目的・効果基準」という判断枠組みを示しました。すなわち、①行為の目的が宗教的意義を持つか、②行為の効果が特定宗教を援助・促進するか、という両方を満たす場合のみ違憲とされるという考え方です。

小泉純一郎元首相の靖國参拝をめぐる訴訟でも、最高裁は参拝そのものの違憲性には踏み込まず、「参拝によって法的利益の侵害はない」として原告の訴えを退けました。したがって、公人参拝の合憲・違憲についての最終判断は、現在に至るまで示されていません。

2-2 A級戦犯合祀をめぐる二重構造

靖國神社をめぐる大きな争点のひとつが、1978年のA級戦犯合祀です。ここには「国際法上」と「国内法上」の二重構造があります。

  • 国際法上では、日本は1951年のサンフランシスコ講和条約(平和条約)第11条に基づき、東京裁判の判決を受諾しました。そのため国際的には、裁判の判決を受け入れる立場を維持しています。
  • 国内法上では、1952年に国会が「戦犯在所者の釈放等に関する決議」を全会一致で可決しました。その後、関連法の改正により、処刑・収監された者も「公務死」として扱われ、遺族への補償や恩給が行われました。

靖國神社は合祀の条件として「厚生省(当時)の戦没者名簿への公務死記載」を求めていました。そのため、この国内法上の措置を前提として、1978年にA級戦犯14名が合祀されたのです。

(靖國神社を訪れた際に必ず行うことのひとつとして、その日に感じた「ベストアングル」を探しながら大村益次郎像を眺め撮影。)

🔸3🔸 公人参拝の正当性

🔸2🔸 で見たように、最高裁の「目的・効果基準」に照らせば、公人の参拝もその目的と効果次第では合憲と評価される余地があります。しかし、この法的な可能性にもかかわらず、議論は長年「私人か公人か」という二元論に留まってきました。本来、当たり前であるはずの「日本人として参拝する」という視点からこの問題を考えてみたいと思います。

「日本人として」という参拝の意義

歴代首相の多くは、靖國神社に参拝する際に「私人として参拝」と表現してきました。これは、憲法20条の政教分離規定との関係で違憲論を避けるための表現でした。
しかし、この「私人か公人か」という二元論的思考こそが、議論の本質を見失う要因となり、問題を先延ばしにしてきたと感じます。

神谷宗幣代表は、この点について「公人か私人かという区別自体が不自然である」と指摘し、「日本人として参拝する」という立場を明確に示しました。
この言葉は、長年続いてきた二元論的思考による議論をアウフヘーベンすることで新たな視点をもたらし、歴史的議論に一石を投じました。

具体的には、次のような意味を持ちます。

• 公私二元論の超越
従来の「公人か私人か」という憲法論争の枠組みそのものを問い直すことになります。

• 国民的道義への準拠
参拝の根拠を宗教や政治的意図ではなく、日本人としての自然な道徳心や感謝の念に置くという考え方です。

• 思想・良心の自由の表明
参拝を憲法19条に定められた「思想・良心の自由」の行使と位置づけることができます。

「日本人として参拝する」という姿勢は、靖國参拝を宗教や政治の対立構造から、国民的・道義的行為として再定義できる発言でした。

🔸4🔸 天皇陛下と靖國神社の関わり

靖國神社への参拝をめぐる問題は、公人(政治家)の立場と天皇陛下の立場とで大きく異なります。政治家が合憲性や道義性を根拠に参拝を正当化しようとする一方で、天皇陛下は戦後、靖國神社と慎重な距離を保ちながらも、別の形で追悼の意思を示されてきました。

4-1 ご親拝の中止とその背景

昭和天皇は戦後も靖國神社へのご親拝を続けてこられました。しかし、1975年11月21日のご親拝を最後に、以降は途絶えることとなります。
直接の契機は、1975年に三木武夫首相が「私人として参拝」と発言したことでした。この発言をきっかけに、首相の靖國参拝が国会や世論で大きな政治問題となりました。天皇のご親拝までもが同様に政治問題化することを懸念し、宮内庁はご親拝を見送る方針を固めざるを得なくなったのです。

さらに、日中国交正常化以降、中国などから外交ルートを通じて懸念が示されており、不要な摩擦を避ける必要性も背景にありました。こうして、1976年以降のご親拝は見送られることになったのです。

4-2 A級戦犯合祀による方針の固定化

1978年10月、靖國神社はA級戦犯14名を合祀しました。この合祀は宮内庁に事前連絡なく行われました。後に公開された「富田メモ」によれば、昭和天皇はこの出来事に深い不快感を持たれたとされています。

これにより、ご親拝を控えるという方針は一層固定化され、事実上、昭和天皇の代以降、直接のご親拝はなされなくなりました。

4-3 現代における制度的解決策「勅使派遣」

ご親拝が途絶えて以降も、天皇陛下は靖國神社との関係を完全に絶たれたわけではありません。現在に至るまで、春秋の例大祭などの重要な祭事には、天皇の名代(代理)である「勅使」が派遣され続けています。

勅使は御幣物を奉納し、天皇陛下の御祭文を奏上します。儀礼上、勅使派遣は天皇の参拝意思の具現化とされており、神道の教義上も天皇ご自身の参拝と形式的には差がないとする見解があります。

この「勅使派遣」という制度は、政治・外交問題への配慮からご親拝を控えながらも、戦没者への追悼の意思を絶えず示すという両立を可能にする「制度的解決策」として定着しているのです。

🔸5🔸 公人と天皇陛下:異なる立場、異なるアプローチ

靖國神社への関わり方は、公人と天皇陛下とで明確に異なるアプローチが取られています。

• 公人の場合
最高裁の「目的・効果基準」や国内法上の名誉回復措置を根拠として参拝の正当性を主張できます。さらに「日本人として」という言葉を用いることで、憲法論争を超え、国民的・道義的な行為として位置づけることが可能です。

• 天皇陛下の場合
ご自身の行為が政治問題化することを避け、外交関係に配慮する立場から、直接のご親拝を差し控えてこられました。しかし、儀礼上ご親拝と同等の意味を持つ「勅使派遣」により、静かに、そして途切れることなく追悼の意思を示し続けておられます。

靖國問題の複雑さは、このような法的・歴史的背景と、それぞれの立場の違いから生じています。この構造を理解することで、靖國問題を単なるイデオロギー対立ではなく、日本の近現代史を映し出す鏡として捉える必要があると感じます。

🔸6🔸 おわりに

約半世紀にわたり、靖國神社参拝を「宗教行為か政治行為か」の論争、「軍国主義への回帰」という偏った認識、「歴史認識の象徴行為」と解釈する論調が国内外で繰り返されてきました。

しかし、それは固定観念や偏見に基づいた短絡的な見方であり、法的・歴史的文脈を無視したものにすぎません。
靖國に祀られた御霊に感謝を捧げることは、政治や宗教を超えた、日本人としての自然な行為です。

戦後80年という節目を迎えた今こそ、失われた歴史の真実を見つめ、平和を次世代につないでいくことが、今を生きる私たちに課せられた責務であると強く認識し、政治活動を行なっていきます。


加地 まさなお
Kaji Masanao

所属議会
足立区議会議員(東京都)

経歴
1975年生まれ 47歳 
妻と息子2人の4人家族
飼料運搬業(株)TAKAHASHI 専務取締役
投票したい政党がない事に絶望を感じていた時、参政党が出来る事を知り、結党当初から運営党員として活動。

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